3月18日は、セントパトリックデーとして、
ニューヨークで毎年、盛大なパレードが行われます。
今年2023年は、コロナ以降、初めてのパレード再開となり、盛況だったようです。
アメリカに来るまで、アイルランドの最大の祝日セントパトリックデーを知りませんでした。
また、緑色がシンボルで、四葉のクローバー、アイリッシュ・ビールを飲んで祝うようぐらいしか知りませんでした。
映画「I am Patrick」
ところが、「I am Patrick」という聖パトリックの生涯を描いた、映画を見るチャンスがあり、驚きました。
彼こそ、アイルランドの国をキリスト教に改宗させた、イギリス出身の宣教師であったのです。
パトリックの若い頃~奴隷として売られる
5世紀終わり頃の話。イギリスがローマ帝国の支配下にあった時代。
パトリックは、イギリスで、地位があり、ローマ配下の収税人の父親のもとに生まれた。
カトリック教会の礼拝には参加していても、信仰心はなかった。
16歳の時、アイルランドからの海賊の集団に襲われ、
何人かの若者と一緒に、アイルランドに連れ去られてしまう。
そこで、奴隷となり、羊飼いとして6年を過ごす。
パトリックの神との出会い~真の改心
しかし、その期間、パトリックの神との対話、祈りを通して、
神が父の存在であることがわかり、真に改心する。
パトリックは、神との祈りの時間を求め、奴隷としての仕事の合間、できる限り、祈りをもつように努めた。
朝早く起きたり、時には断食して、祈りの時間、神との交わりの時間をもった。
神への愛と畏れが増し加わり、神との個人的な霊的な関係が強くなった。
神の声を聞く~イギリスに戻される
ある夜、パトリックは、神の声を聞く。
「祖国にもうすぐ、戻る。そのための船が用意されている」
その通り、パトリックは奴隷から逃れ、海辺にたどり着いた時、
ちょうど船を出そうとしていた人たちと一緒にイギリスに戻った。
パトリックは、イギリスに着いて、徒歩での厳しい道中、家族のもとに着き、
感動的な再会を果たす。
献身の道~アイルランドの宣教の召し
しかし、彼は、以前のパトリックではなかった。
ある晩、夢を見た。 その中で、アイルランド人からの手紙を受け取る。
その手紙には、
「アイルランドの声。私たちのところに来て、共に歩いてください」とあった。
パトリックは、この夢を通して、神からの召し、宣教の召しを受け取った。
そして、カトリック教会の司教に、聖職者としての道を願い出る。
司教のもとに学び、パトリックは、司祭として按手された。
アイルランドへ~成功した宣教
パトリックは、当初、北フランスに遣わされる話があったが、アイルランドに送られることとなった。
アイルランドの国は、当時は、異教の国で、沢山の異教や神秘主義があった。
パトリックは、アイルランドでの奴隷時代に、アイルランドの言葉を話せるようになっていた。
パトリックの、アイルランド人に対する、メッセージは、
裁きの日のことではなく、
神の愛であり、神と個人的な関係をもって、神を知ることができるという内容であった。
異例な宣教の拡大
パトリックを通して、何千もの人たちがバプテスマを受け、
献身者が起こされ、教育のない人たちも司祭として立てていった。
司祭を立てることで、クリスチャン・コミュニティーを作っていった。
そして、次の地域へと進み、新しいクリスチャン・コミュニティーを生み出していった。
当時、アイルランドは国として統一されておらず、
いくつもの部族に分かれて、領土が分割されていた。
部族の長以外は、部族間の土地を行き来することができない時代で、
パトリックは何度も、殺されそうになったり、牢獄に入れられたりした。
しかし、そのような困難の中で、助け出され、宣教を続けた。
パトリックへの批判・友人の裏切り
イギリスのカトリック教会から、パトリックの宣教のやり方が批判を受け、
アイルランドから戻るように要求された。
しかも、パトリックの一番親しく、信頼していた友人が、彼の若い頃の秘密をもらし、裏切った。
このことを通し、パトリックは最悪のところまで落ち込んでしまった。
しかし、パトリックは、
「自分は神によって選ばれ、司教とされた。私の働きはまだ終わっていない」と、
アイルランドにとどまった。
パトリックは、5世紀の終わりがか6世紀の初めにアイルランドで亡くなり、
その後、イギリスはローマの支配から解放された。
この映画「I am Patrick」は、パトリックの自叙伝「告白」と、彼の覚書などをもとに作られました。
また、パトリックは、自分がアイルランドという地の果てに行って、
福音宣教をすることで、キリストの再臨が早まるという信仰をもっていたそうです。
苦難と困難の連続の生涯ですが、神への祈りが、彼を支えたのを見ることができました。
一度は、祖国イギリスに戻りたいという肉の思いがあったことも語っていましたが、
御霊が自分をここに置いているという確信のうちに、
神の召しと宣教を全うされたたことも印象的でした。
PS この映画は、CBN制作で、残念ながら一般公開されていません。
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